Imprimer cet article

Commenter cet article

www.gochina123.com
中国主要都市生活情報満載のナビゲーションサイト
ホームページに設定 お気に入りに追加
その他  
北京の歴史

 

北京近郊には約70万年前の旧石器時代から人類、-北京猿人が生活していたといわれる。1929年に北京大学の考古学者、裴文中が北京南西約50キロの周口店で石灰岩の洞窟から60万年前の原人の完全な頭蓋骨を発見している。

商時代(1600-1100B.C.)には北京付近に大きな集落が出現していた。地名として最も早く文献に名が記されているのは、薊(Ji)という国である。薊は紀元前11世紀ごろ中国北西を統一した西周王朝が建てた国の一つである。薊は春秋時代に戦国七雄の一つ、燕に吸収され、薊城は燕の都となった。それから紀元前226年に燕が巨大勢力の秦に滅ぼされるまで、薊城は燕国の都城として栄えた。現在も北京が“燕”や“燕京”の雅名で親しまれる所以はこの時代にある。薊城の遺跡は、今も北京西南部に残っている。

938年、薊城は北方少数民族の契丹人が建てた遼の副都(第二首都)となる。当時、薊城は遼領土の南方に位置したため「南京」と改称され、また燕京とも呼ばれた。やがて女真族(満州族)の金が遼を滅ぼし、1153年に燕京に遷都して「中都」と改名する。

1214年、金朝はチンギスカン率いるモンゴル軍に攻められて領土の大半を奪われ、開封への遷都を余儀なくされる。1215年、金は中都を放棄しモンゴル軍に接収される。1267年、モンゴル族は中都城の北部に新しい城を築くことを決めて、3代目ハーンのフビライが中都を「大都」に改称した。大都は全国を統一した元国の首都となる。1276年、新しい城が現在の故宮の位置に完成した。この頃イタリア旅行家マルコポーロが大都を訪れて17年間フビライに仕えている。

北京は、中国全土を統一した秦、漢、隋、唐の各時代には首都ではなく、華北の有力都市の一つにすぎなかった。北京が中国の首都となったのは、フビライが大都と名づけたこの時が最初である。しかし遊牧民である元のモンゴル人達は草原を求め、畑ばかりの北京の街を焼き払い漢人を殺して人口を減らす計画が持ち上がった。しかしフビライの重臣であった契丹人の耶律楚材(やりつそざい)が農業、商業の重要性を訴えてそれを阻止したという話は有名である。またモンゴル帝国は華北支配の要としてムスリム人官僚を多数採用していたため、当時から多くのムスリム系住民が暮らしていたようである。北京の南西には北京最古のモスクである牛街礼拝寺がある。

1368年に元が滅亡。明が変わって中国を支配し、南京に首都が移され大都は「北平」と改称される。しかし永楽帝が政権を奪うと、北平を「北京」として再び明の首都に定めた。永楽帝は元時代の宮殿を徹底的に破壊し、新たに紫禁城(現故宮博物館)を建設した。現在故宮のすぐ北にある景山公園は、紫禁城のお堀を造った際に出た土を積み上げた人口の山である。

1644年、農民軍の反乱により明が滅び、女真(満州族)の清が北京を占領したが、国都は引き続き北京に置かれた。1840年にアヘン戦争が勃発。欧米諸国から激しく攻撃され、市内は戦火に包まれ様々な物品が略奪されて大きな打撃を受ける。内戦・戦乱の時代はさらに続き、1911年孫文ら革命勢力による辛亥革命が起こって清王朝は事実上崩壊した。1912年宣統帝が退位、南京に臨時政府が置かれて中華民国が成立する。蒋介石率いる国民政府は1927年、正式に南京を首都と定めて北京を「北平」と改称した。北京はそれから30年余りにわたって戦争や内乱が続き、変わり果てた姿となる。1937年、日本軍が北京に侵攻、古城は8年にわたり苦しい戦いの場となった。1945年に日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏、国民党政府は北京を取り戻して苦難と屈辱、血と涙に溢れた戦争に終止符が打たれた。1937年から1945年までの日本軍占領期は「北京」の名が使われ、日本の敗戦によって再び「北平」の名称が用いられた。

第2次世界大戦の終結後、国民党は拡大した勢力をもつ中国共産党と対立し、蒋介石と国民党は台湾へと逃れた。1949年10月1日、紫禁城(故宮)入口前の天安門広場で式典が開かれ、毛沢東主席が中華人民共和国の成立を宣言する。北京は生まれ変わった中国の首都として新たな一ページを踏み出すこととなった。

現在、北京は中央官庁が集積する政治経済の中心である他、故宮博物館、天安門広場、万里の長城などを訪れる海外からの観光客も多い都市である。重慶、上海に次いで中国第三の人口を持ち、アジアを代表する世界都市の一つに発展した。2008年8月8日~8月24日、北京で夏季オリンピック(北京オリンピック)が開催された。

 

1   2   次のページへ